20分文章 then-dの場合

 そもそも、私にとって厳しい時間制限を受けて文章書くということは、仕事の際に求められることが多い。提出期限のある文章を、修正の時間的余裕のあるうちに原案を出し、修正案を上司から受け、それを大まかな指示の場合には自分で文案を作り直し、再度調整、そのようなことを上司の数だけ繰り返し、ようやく提出とあいなる。

 このとき、よく言われることは、最初の案は60点でいい、ということだ。それはお前に誰も期待していないからだ、ということもあり、一人の力では完成度というものはたかがしれている、ということでもある。また、個人の癖というものはよく出るもので、それらの臭みを消し、バランスの良い文章に調整していくためには、やはり複数人による校正に近似した作業は必須なものと社会的には考えられている。

 なぜ、このような作業が必要となるのか。それは、より多くの人に共通した文意を明確に知らせるため、という目的がそういった作業を求めている、ということが第一に存在するからであろう。つまり、ここでは、所謂「作家性」というものは害悪でしかない。その作家性とは、単に個人の趣味であり、個人的な興味・関心に彩られた偏向であり、それは、共有知というものからは程遠く、理解にはその人となりを知る、少なくとも個人的生活感は除いても、その人の文に対するリテラシーといったようなものが必要になってくる。

 社会的に認められた文章を書くということは、そのような、よく言えば「個性」、悪くいえば「アク」といったものを消す方向に向かっている。それは、組織なのだから当然という見方もあれば、組織の代表がカリスマをもってカラーを出していく、という方向性をもつ集団に取ってみれば、カラーのない、つまらない文章とも言えるだろう。

 このような場合、その「正しさ」とは、何処にあるか。それは、結局のところ、明確な目的と、不明確なニーズのあわいにたつもの、という曖昧な返答しか返すことができない。しかし、我々は、個人と組織とのあいだに立ちながら、それでもなお、自己表出の一環としての「書く」という行為から逃れることはできない。それは、やはり、「形になる」という際には、パロールのみで全てを乗り切ることは困難な状況になってきているからといえよう。

 例えば、会議ひとつ取ってみても、全てICレコーダで録音し、それを議事録として起こし、逐語で文意が不明確なものも発語を整理してこなれた文章や要点を捉えた箇条書きに落とし込んでいく。そのような「整理」の作業には、どうしても「書き言葉」が必要となる。そのような制約された状況の中に私自身は常に立たされている。このようなことは、先述の「作家性」を逆に武器として、固有の文章(文体)をもって人と社会に対して切り結ぶ、という作業をしている(であろう)作家諸氏にとっても、やはり、この校正や編集者からの意見というものは存在し、それらが社会の代弁者となって「通用する文章」へのステップを踏ませている、ということも当然に存在するであろう。

 ここから言えることは、どのような人間であっても、社会性という立ち位置から逃れることはできず、そのような制約の中から、自らがどのような自己表出をしつつ、社会の中に自らを位置づけていくか、という至極単純なことである。しかし、ここで、私自身の欲求もまた存在しており、自らをマスに埋没させずかつ軋轢を適度に避け、さらに自らを固有なものとして、自己にとっても、他者にとっても、ある程度の存在感を示すことができつつ、なお、円満な関係を築き上げる、そのようなものを私は理想としたいと考えているところである。

 しかし、そのような周囲との調整に汲々とした自分を壊し、さらに一段高いステージへ自分を導くことへの欲望もまた存在することも事実である。そのような憧憬は、『AIR』の神尾観鈴への憧憬や、復活の荒木大輔ライスシャワーなどへのあこがれなどにより現れている。ここで、憧憬しつつも空の遠くを見つめているだけでは飽きたらず、自己の限界に対する挑戦をしたいということで行っているのが、ささやかな同人活動と言えるのかもしれない。それ故、一度作り上げることのできた大部の同人誌『永遠の現在』の成果を承け、それを超えようとまた今回、『エロゲシナリオライタ25人×25殺』企画を立ち上げたという次第。超えようと思いつつ、同じような状況を堂々巡りというのはよくあることではあるが、そのなかでも、自分にとって何かひとつでも身になること見つけたいと考え、このような取り組みを行っているところである。

 協力いただく皆様には、このような非常に個人的理由による企画に参加いただいたことを感謝申し上げたい。