冬コミ(C81)新刊『恋愛ゲーム総合論集2』(特集:Rewrite)目次と内容のご紹介

■概要
『恋愛ゲーム総合論集2』(特集:Rewrite))
制作サークル名  :theoria(テオーリア)
頒布開始イベント :コミックマーケット81
頒布開始日     :12月29日(木)〜12月31日(土)

頒布先サークル  :liliane.jp(12月29日(木)西ま−05b)……マリみて島、C.F氏のサークル
             theoria(12月31日(土)東P-59a)……評論・情報島、主宰then-dのサークル
即売会頒布価格 :1,000円
ページ数      :192ページ
表紙         :『Rewrite』より篝とルチア  絵師:担当:透音さん(@touon)&紋瀬夏海さん(@aya0730)合作

裏表紙        :『キサラギGOLD☆STAR』より長屋の仲間たち(絵師:ぴざぬこさん)(TwitterID:pizaru

<同人ショップ委託>


I.作品論

1.【特集】『Rewrite
  (1)何故「鍵の少女」は殺されなければならなかったのか――樹木信仰と奇跡学――  仮名文字一刀流ネ右さん(@KanamojiItouryu))

樹木信仰の聖なる世界を問う探究の旅は、命と「奇跡」の再肯定によって幕を下ろす。鍵の少女は殺される。だけれども、タイトル画面のBGM「旅」の通り、そして「CANOE」の歌詞にもあるように、人類の旅はむしろこれから始まるのである。旅の終わりから旅の始まりへ。ある意味、「奇跡」を再び肯定したことによってまたKey的な聖なる世界に戻ってきたと言えるのかもしれない。

     ・挿絵「ガーディアン」 夕住まうさん(@yuuzumimau


  (2)「大樹」と「少女」の消失――書き換えられた『Rewrite』の物語とその周辺  瀧川新惟さん(@atakigawa_lw

本稿では、Rewriteにおける「大樹」と「少女」の消失に焦点を当て『Rewrite』の時系列の変化について想像した。また、『CLANNAD』、『リトルバスターズ!』との関連を含めて、Keyの製作体制についても想像した。すべては想像に過ぎない。
最後に補足しておくと、Keyの作品群は、その整合性に些かの問題があるとしても、それを補ってなお十分な魅力がある。本稿で曖昧に論じた整合性の欠如も、かえってその魅力の一部となっている可能性すらある。いちファンとして、これは極めて悩ましい問題だ――


  (3)滅びについて  東部市場前さん

〈鍵〉は滅びをもたらす。ところで、滅びの実態とはルートにより一様ではない。むしろ積極的に異なってすらいる。好対照を示しているのは千里朱音ルートと中津静流ルートだろう。両ルート共に天王寺瑚太朗は組織のエージェントとして人類の(ほぼ)滅亡を目撃する、にもかかわらずそのプロセスはまったくと言ってよいほど異なる。これはどうしたことだろう。

     ・挿絵「ドルイド」 悠月さん(@yuduki_


  (4)旅の理論  simulaさん(@simula

CANOEは『Rewrite』のテーマ、幹が描かれているように思います。
島の外には何があるのかという探究心、水平線を見渡せるほどの櫓を立てるという夢。幻想のような新しい世界を目指そうという心。そして、島の樹の全てを切り倒して、台無しにしても旅立つ「僕ら」。
ここで描かれるのは、本質だと思うのです。前に戻る、あるいはそこに留まろうとするのではなく、常に先へ進もうとすること。
櫓を立てる『ぐらつく足元 度胸は大丈夫か』と問われ、櫓から見えた世界は幻想のようだと言われます。そして、そこへ行くためには島の樹をすべて切り倒す必要がある。にもかかわらず、彼らはそれをやりきった。ここでは善悪や損得による考え、判断ではなく、そういうものを志向するのが人であるという認識を表しているのではないかと思うのです。この辺りを踏まえて、作品を見て行こうと思います。


  (5)社会は維持できなくても良いし、人類は滅んでも良い――『Rewrite』序論  tukinohaさん(@tukinoha

Rewrite』にも世界設定担当として名前を連ねる田中ロミオの作品には、学園を舞台にしたものであれ、館を舞台にしたものであれ、あるいは家庭、あるいは都市を舞台にしたものであれ、その底流には社会構造に関する一貫した関心が存在している。筆者は旧稿で彼のコミュニケーションについての考察を取り上げたが、彼の「他者」や「会話」に関する考察には、現代社会が作りあげたネットワークのなかでそれらがどのように位置づけられるか、ということが問題とされている。『最果てのイマ』で唐突に語り出される文化人類学に関する挿話などは、そのような関心がわかりやすい形で表出したものと言えるだろう。『Rewrite』まで続くこの社会構造への関心が形成されるうえで決定的な一歩となったのは、私見では『星空☆ぷらねっと』、特に藤原佳多奈のシナリオであった。

     ・挿絵「ガイア」 しらいちごさん(@ichigoho


2.『星の王子くん』
  サン・テグジュペリの子ら  wrydreadさん(@wrydread

この物語は全てが全て、教えを説くように出来ている。
『星の王子くん』は『星の王子さま』の補完だ。
言葉少なに語る世界の様相は彼の目を授けるものだった
あえて言うならば、『人間の土地』、『星の王子さま』『星の王子くん』と、クドさが増して行くのだ。さも、フレンチから肴に変わるような。
だから、『星の王子くん』はクドい。味が濃いのだ。
サン・テグジュペリがほのめかしてきた「愛」を紛う事なきその言葉で表現しようとする。
我々が為すべきは、その濃い味付けの中に、知りえ、判じ得る滋味を見つけ出す事に他ならない。


3.『天使の羽根を踏まないでっ
  ――きっとこれは、神様を示す、物語  遠山悠夏さん(@friendchildhood

端的に言って、今作は凄まじく面白い。もっと評価されるべき――なんて、使い古された言葉だが。今作が放つ輝きを見逃してしまっている人はあまりにも多い。はっきりと言おう。私は福音を知らせに来た。今作が新約聖書をモチーフとしているのはわざわざ確認する必要もないだろう。本論では新約聖書福音書を参考にしながら、今作について解読していく。聖書にはアンチョコ本とでも言うべき物が付随している。それは聖書が実に解釈が難しい書物だからだ。それに準えるならば、この論は『天使の羽根を踏まないでっ』のアンチョコになる。諸子の理解を助けられれば幸いである。


4.『サクラの空と、君のコト』
  ――奇跡の話――  冬野氷夜さん(@fuyunohyoya

表面上は、テンプレの萌えでありつつ、それを皮肉り、現実に突き落としてきた。
プレイヤーに奇跡を見せつけた後、……それを否定してくるのは初めてだった。


5.『恋ではなく―― It's not love, but so where near.』
  『恋ではなく』論――の振りをした恋愛ゲームに関する随想  川崎水姫さん

筆者は物語プラットフォームとしての恋愛ゲーム(の可能性)に強く期待しており、それ故に現在メーカーによって追求されている(というのはつまり市場の多数派が求めている)恋愛ゲームにも、少し前の(最近はあまり見てないので)非資本主義的活動としてのニーズ表明(というのはつまり今あなたが読んでいるこれも含めて)にも、満足していません。ああ言ってしまった。まあ満足しちゃったら人生も趣味もそこでおしまいなんですけど。
 そんな中、孤高のシナリオライター早狩武志の新作『恋ではなく―― It's not love, but so where near.』はかなり満足の行くものでした。ということで、何が不満なのか、『恋ではなく』はどうだったのか、そもそも長くもない恋愛ゲーム史においてはどうだったのか──、といったあたりを並べあげていくことで、現状に何か影響すればいいな。しないかな。でも並べあげるだけなら自分の日記ですればいいことだし。まあそんな感じのスタンスで。


6.『キサラギGOLD☆STAR』
  他律性・理不尽・孤独――新田二見の人物像から見る『キサラギGOLD☆STAR』の核心  then-d(@then_d

本作では、断絶を断絶として描きながらも、そこに強烈な正しさや選別への意識を喚起させることはない。これは、二見の姿にあるように、長屋の雑多性をバックに、人のあるべき姿の中で、特定のものを否定したり切り捨てたりせず、生の総体を受け止めるとし、全ての想いを糧にしてそれを次の飛躍に繋がるよう内に溜め込み次の飛躍の発射台としていく、といった連続性をも明確に示している。
このような想いの集まるとき、そこに新たな達成状況を得られる可能性があることを示唆したことは、「俺たちは、まだ……子供なんだから」(二見の独白)という留保を付けながらも、夢を単に夢物語として切り捨てるようなことをせず、今を停滞として単に乗り越えるだけでもなく、停滞そのものを永遠の愛という形で肯定する理屈付けを行い強制的に納得させるわけでもない。周囲の全てを取り込み力に替えていくというバランス感覚に支えられているように感じられるのである。

     (挿絵)高林健さん


II.作家論系

1.丸谷秀人
  「ガラスみたいに透明で フィルムみたいに泳いでる」〜私論・丸谷秀人〜  紅茶の人さん(@atslave

丸谷氏においてはこの反復は常に終わりを意識したものとして最初から立ち現れる――それゆえに、プレイヤーは徒労感から予め逃れることが可能であり、それゆえに今ここにある反復の瞬間を――訪れる変化を、畏れつつ待つことができる。
 それゆえに、プレイヤーは、主人公はテキストを先へたぐらずにはいられない。
 ただ同じことを繰り返すことには主人公は飽いている――それゆえに彼らはしばしば破壊者として振る舞うし、繰り返される日常には常にどこか陰がさしている。
 意図的な遅延は終わりに至るまでの快楽を引き延ばすあがきであり、同時に亀の歩みではあれ確かに進んでいることをプレイヤーに意識させる餌だ。それ故、この手法が用いられるヒロインは全て単純な存在ではありえない。


2.正田崇(補)
  『Dies irae』と『神咒神威神楽』は愛と勇気と絆のラブストーリーである  ツエ丸さん(@Tue

正田崇作品において、異能バトルと恋愛は強い結び付きがある。恋愛関係やコミュニティ内の絆を強化することでキャラクターたちは成長し、強大な敵に立ち向かう力と勇気を得る。正田崇作品は、愛と、勇気と、絆の物語である。
 本稿では、正田崇作品においてユーザーから取り逃されている恋愛面や成長などの要素へ焦点を当て、それらの視点から『Dies irae』と『神咒神威神楽』を今一度論じ直すことを目的とする。


3.鏡遊
  鏡遊関連作品への感想まとめ  a103netさん(@a103net

恋愛をきっかけとして、気持ちの変化、悩み、居場所を求める気持ち、幸せ、選択といったものにつながっていると思う。そして、主人公とヒロインの周辺の人物によって、前進するためのメッセージがプレイヤー側にも伝えられているのだと感じた。例えば、『はるのあしおと』で樹の叔父である教頭先生が、「人生では様々な局面で選択を迫られる。でもな、案外、何を選ぶか、なんてことは重要じゃなかったりするんだよ」と言うように。


4.タカヒロ・るーすぼーい・丸戸史明
  「願いも、祈りも、切り捨てて」――『太陽の子』に向けて――  遅れてきた大物さん

主人公が彼女のトラウマにおいて結節点として別ちがたく結びつくことにより、簡単に別れる姿が想像出来なくなる、つまりこの恋が特別なものとなり、私たちが今まで見てきたこの物語もまた、特別なものとなる。そう、たとえば現代学園現実的等身大世界を舞台に、これが特別な恋でありそれでいて二人の未来までも保証するような手法が、他にどれだけあるだろうか。
しかし、それでも尚、そのようなトラウマの処理とは一線を画す。それがタカヒロ・るーすぼーい・丸戸史明三者に共通する点です。一般的なトラウマ解決ハッピーエンド構造の物語ではなく、彼らのトラウマへの向き合い方は、異なりながらも本質的には全く同じ。それは彼らが”人間というものをどう見ているのか”ということを表してもいるでしょう。ヒロインの個別ルートで語られるのが「彼女の物語」だというならば、その物語で中心となるのが彼女のトラウマという「心の問題」というならば、そのトラウマ・心の問題は、言わば彼女という人間を換言/還元したカタチ。そうだからこそ、トラウマをどう扱うかというのは、その扱うもの―――つまりライター自身が、エロゲの中において・物語の中において「人間をどう見ているのか(どう扱うのか)」ということを、多少なりとも示唆しているのではないだろうか。


III.メディア論

1.形式としての恋愛ゲーム・試論  Lianさん(@Lian

本稿では、恋愛ゲームの持つ形式について述べていきたいと思う。そして、恋愛ゲームの内包している様々なジャンルの中でも、物語性の薄いキャラゲーを主に想定して考えていきたい。故・伊藤計劃氏が指摘していたように、これまで多くの恋愛ゲーム批評が対象としてきたとは、恋愛ゲームの持つ物語である。ある意味では、私もそうなってしまうのは仕方が無いことであると思う。恋愛ゲームの持つ形式的側面は、言ってしまえば他のメディアが持つ形式の寄せ集めに過ぎず、ある程度それらに親しんできたユーザであればそれは語るまでもない自明なことのように思えるからだ。それに、我々は制作者ではなく、あくまでも一介のユーザに過ぎない。制作者であれば、自分が取り組んでいる作品の形式については否が応でも考えざるを得ないだろうが、ユーザにとっては必ずしもそうではない。こうした形式はあくまで物語を上手く伝えるテクニックの一つに過ぎないのであり、最終的にゲームプレイを通して上質な物語体験さえ味わえるのであれば、その内実なんてどうだって良いことなのかもしれない。
とはいえ、全てのユーザがそうというわけではないだろう。そうであってはならない、と思う。カンブリア紀が終わって安定期に入ってしまったとさえ言われる現在の恋愛ゲームにおいても、一考に値する形式的な価値はあるはずだ。そして、その価値を我々ユーザ自身も再発見しなければならない。これは、もしかしたら恋愛ゲームから次第に離れつつある自分に対する見当違いの義憤なのかもしれないが、そうではないかもしれないという希望的観測を信じて、先に進もうと思う。


2.「恋愛ゲーム」の周縁における体験談――卑賎なエクストリーム・アート――  もりやんさん (@catfist

本稿で紹介する作品は、恐らく読者の大多数にとって認識も興味もない作品だろう。しかしながら、そこに文化はあり、そこに批評の余地は必ずあるのだ。商業エロゲーに「行き詰まり」を指摘する声の少なからぬいま、異質のコモンセンスのもと成立するこれら作品に目を向けることに、あるいは新たな可能性のひとつやふたつ見出されるやもしれぬ。うし、言い訳終わり。
『イラストとテキストを含み、PCプラットフォームで展開されるポルノ作品』
「準エロゲー」として、その文化的周縁に位置する作品の成立要件を定義してみるならば、こんなところだろうか。小規模なAVG作品はもとより、デジタルコミック、インタラクティヴFLASHコンテンツ、オリジナルドラマCDなどが、この定義には含まれ得よう。これに則り、個人的に着目する作品・製作者について、本稿で紹介していこうと思う。


IV.恋愛ゲームとアニメとの間〜虚淵玄と『魔法少女まどか☆マギカ

まどか☆マギカは魔女の夢を見る。  水音さん (@mizune

本作は虚淵玄という重厚で苛烈で絶望を中心とした物語展開を行う脚本家が描く物語としてはこの上なく正しい物語であった。
俺などは何週か見なおしていくうちに「この最後に『でも生きていこう』に繋げる辺りとかマジ虚淵。最高」とか言っていたし基本的には好評価の人間なのだが、俺は本作の設定や世界観を斬新だとは思わない。魔法少女物としてもSF作品としてもだ。
なぜならば。既に本作に出ている要素は『スマガ』で行われており、虚淵玄氏自らが本作との関連性を言及しているからだ。
そこで本稿では『スマガ』と『まどか☆マギカ』の共通項について少し述べていきたい


V.同人誌評

二次創作という解釈〜2つのアナザー『Kanon』(+『AIR』)〜  雪駄さん(@H926

『かなしみのないそらにかえる』や『WONDERTHREE』は、18禁美少女ゲームを原作としており、美少女キャラクターに対する多少の18禁の性的描写を含むもののそれは作品の主体ではなく、長編のストーリー漫画として描かれた作品である。様々な設定改変やオリジナル要素を含みながらも原作における悲劇の幾つか(例えば両作品ともに沢渡真琴は原作通りに消失する)はそのまま起こり、また、原作では触れられていない部分に敢えて触れ問題を顕在化する。にも関わらず、登場人物たちは最期には笑顔で描かれる。単に原作を肯定し追認するのでもなければ、原作を好き勝手に改変しキャラクターに救済を与え完全なハッピーエンドを創りだすというわけでもない。彼らの作品は原作の持つ救いのなさも不完全な救いも双方ともに受け入れたその上で、彼らを断罪するのでも救済するのでもなく、祝福するかのように描く。


皆様よろしくお願いいたします。