フタコイ オルタナティブまとめて言及

イカファイヤーの存在の特異性が喧伝されているようだが、彼は関係を安定させるための仮想敵とでも言うべきものでしかない。外に安心できる敵(ライバル)を作って内部の安定を図るかのような。
その点では、戦いの場面などで良く動くというような評価は、逆に本作の価値を貶めこそすれ、賞賛に値する言葉とはならない。それは、戦闘シーンが素晴らしい作品などというものは他にいくらでもあるし、そのシーン自体の意味づけを理解しないまま、要素単位で評価していることは作品自体の理解の放棄としか私には受け取れないためである。
そのような視点にいる限り、仮想敵を作って国威発揚という代物と何ら変わらないのではないか。

それなら、本作はどのような点から評価すべきか。
考え得るのは場所性の担保。三人が暮らした土地、家、風景という固有性が人に対してどれだけの影響を与え、逆に人が土地に対してどれだけの影響を返しているか、という点から見るべき。その点から言えば、本作は出色の出来であったと言える。背景の美しさ、距離感、街としての変化と不変、雑踏と静寂、昼と夜、晴天と土砂降り、夕焼けの赤さ……。
それらは、ポラロイド写真に定着させた瞬間に遠い過去へと逃げ去っていくような感傷と共にある。

抑制的なものは全てこれら風景の側にあり、戦闘などを除く日常の冒険、例えばUFO騒ぎ、例えばゴスロリ仮面との追いかけっこなどがとても愛おしく思われるための下地となっている。良く動く、とか言うならば、むしろこのあたりの動きと日常生活との連関、だらっとした生活と一瞬の光芒としてのハイテンションな瞬間をこそ称揚すべきではないのか。そのために、何もない1日やだらっとした犬の探索が第2話、第3話に示されているのだ。

しかし、このように考えてくると、街にありがちな下町メロドラマ調の地上げというシチュエーションには、正直古くさい感触も否めない。地域コミュニティの結束の堅さと土着性の象徴である「二代目!」の言葉も、暖かさと支援の力というポジティブな側面しか見せてはいない。

イカファイヤーが発したような(父と比べて)情けないといった言葉は、地域の人々から発せられることでより身に突き刺さる言葉となるはず。逆に、イカファイヤーが発することで、内部と外部との共犯関係により、それは真の外部ではない、恋太郎のことをよく理解した内部としてありながら外部を標榜しているだけという談合的な関係として成り立ってしまう。そのことは、父と子の同じキックにより同じように排除されるイカという図式化された位置づけからもその共犯関係の度合いがうかがえよう。

イカ野郎が浮いて見えるのは、その存在の非現実さからではなく、彼があまりにも安定的に内部に位置づけられているにもかかわらず破壊者面をして現れるところにある。それは、るる、ららが非日常的戦闘から降り立った後、街のあちこちに遍在しつつ生き、恋太郎を見守る存在となってしまっている点からも同様に感じ取られる。

しかし、その甘さが許されるというのは、恋太郎の存在云々よりは、ヒロインたる沙羅・双樹の幸福を願う我々が有する視線の向かい方によるものであろう(今木さんがよく言う「他人の欲望を欲望せよ」というやつ)。そう考えると、街の人々の甘さというものは、実は視聴者自身の願いでもあるということが見出され、一概に上記の甘さが否定的要素ばかりとは言えないことが立ち現れてくる。

この点は、恋愛の達成点たるつがいとしての2人ではなく3人がいいという点とも繋がってくるのであるが、これについては、そもそも恋愛という制度への反抗、または疑問が呈されているところにあると言えるだろう。制度に、周囲の視線に、こづかれ、叩かれ、揶揄されながら密閉空間の中の分子のようにぶつかり合って均質性を保つ。そんな制度に少しでも爽快なカウンターをかましてやりたい、そんな心証から生まれた作品なのだと思う。そこのところは、精神的にニートに共感するといった心証も含めて、今一度自らに置き直して見る必要があるかと思う。