Game Deep Vol.10「自由度とは何か?」(雪駄氏)に寄せて

コミックマーケット68初日ですね。
私は当然のごとく仕事だったわけですが、行ってもいないのにGame Deep vol.10が読めたので、とりあえず感想。

一読し、非常に納得。結論も正鵠を射ていると思う。
タイトルがいちいち他の何かを想起させずにおかない辺りにもニヤリ(こういうアレゴリーは好きだし)。ただ、最終段落を読んで、あれ?と思う。

現実だってほとんどの場合自分で状況を開始したのではなく、状況に対応する中で自己の流儀を見つけ、中途から状況を開始したように生きやすく改変していっているのではないか。
そうすると、現実を生きる巧さとゲームに対応する巧さとの間に何の相違があるのだ?ということになる。厳然として相違があるらしいけれど。
対人だから?人だってゲームのキャラや障害物やボーナスアイテムだと思えばそれほど苦にすべくもない。

だったら、なぜ?
そもそもとしていえば、自らの身体・生そのものを預ける状況になるかならないか、という切迫性の相違ということが考えられる。
リプレイや遡及の不可能性、一回性。

大声で威圧されるかもしれない、胸ぐらをつかまれるかもしれない、ブン殴られるかもしれない、そこに置いてあるカッターで切り付けられるかもしれない、脅迫が延々と続く針のむしろになるような状況になるかもしれない、食えなくなるかもしれない、のたれ死ぬかもしれない、逮捕、拘禁、脅迫の如き取り調べを受けることになるかもしれない等々。

ゲームの中だったら幾らでも正義漢面したり、万能感を有して(それでもあっさりゲームオーバーで凹むことも多い)いたりできるのだが、実際は電車の割り込み野郎に注意するのだって、迷い、煩悶し、勇気を振り絞らなければ行為すら起こせない。嘘をつかなければならなかったり、方便を使うこと一つとってみても煩悶したりする。一夏のように。自分が活かされる場がそもそもあるのか、なくなってしまうのではないか、足許から担保されているわけではないこのゲンジツ。
ゲームなら、担保されていなければクソゲーだといって切り捨てることができるが、人生(クサい言葉だ)はそうはいかない。

誰かを好きになったって、どこにも保証はないんだよ、(中略)
そんな当たり前の世界で、俺達は、好きだの愛してるだのやっていかなくちゃならないんだよ。

好きだの愛してるだのということはともかく、生を受けた時点から死ぬまでという連続。連続性。それらを想う時、如何に導入が上手でも、煽動によっても、容易に駆り立てられるものではなくなる。

ただ、その連続性も、記憶と記録と周囲の人間の同意によって脆くも作り上げられた砂上の楼閣にすぎない。

だったら何故そのような認識を有しながらもゲームを行うのか。
ifはないのに?

想定された人生の線上を生きた同志の行いとして省みることで、我が生への参考としたいというところが一つあると思う。
(当然、負けるために行うSTGにだってそういう意味は見いだせる)

それに対し、他所(特に年長者)からの批判の多いところは、そもそもその行為自身が自らの生から逃避しているという言である。
しかし、これをいうならば、読書もまた然り。

というとおかしな話になってきてしまった。
これは、まぁ、私が何故ゲームをするのか、というところでスタートラインが異なり過ぎるからなんだろうね。