『借りぐらしのアリエッティ』初見

本日観てまいりました。
断片的にですが、取り急ぎ初見での所見を。
いつもどおりネタバレ前提でよろしくどうぞ。

まず、部分的なところから。

<立地>
小金井市周辺ということで、冒頭の絵の状況と川、斜面から考えるに、東八道路から北に入り、野川周辺の国分寺崖線近辺の斜面に立地する家が舞台と思われる。
ラストシーンで、ヤカンの船に乗っていく川の描写からは野川と思われる。
表通り(4車線?)では貞子と翔の乗ったベンツが曲がるときにバックに小田急バスと思われる車体のバスが通過している。

<各種作品へのオマージュ>
荒れた斜面の道路をベンツが登っていく姿とくれば『千と千尋の神隠し』へのオマージュ。
手入れがあまりされていない荒れた古い家とくれば『となりのトトロ』だがこれはちょっとこじつけっぽい。
猫のニーヤは『耳をすませば』のムーン(別名お玉、ムタ)
ドールハウス内は『耳をすませば』の地球屋の雰囲気(地球屋にもドールハウスがあったがこんなにゴージャスではない)。
アリエッティ一家が出て行く際にタヌキが出現したのは『平成狸合戦ぽんぽこ』へのオマージュ。今でも生きていると。その映画の舞台は多摩丘陵で、多摩川を挟んて向かい側となるあたりが舞台だった。
舞台と言えば、国分寺崖線近辺の斜面の途中ということは前作がらみの「崖の上」ではないとな。
アリエッティ一家を見送った後の朝陽が登る辺りは『耳をすませば』のラストシーンを彷彿。しかし、『耳をすませば』の告白と対照的に別離とな。
スピラーは『未来少年コナン』のジムシィかと思いきや、寡黙で弓をひく姿あたりから『もののけ姫』のアシタカも混ざるか。
ハルについて、声の樹木希林は私に近いとコメントしていたが、私見では宮崎駿と思量。米林監督にとっては巨人・宮崎駿はハルのような四角い顔をして、メガネを振るってつるを開くような仕草をもつ恐怖の存在と考えてみたり。些事だが。


テーマ的な面はそんなに仰々しく言い立てるまでもないと思いますが。
借りぐらしについては、こういう生き方をフリーライダーだとがなり立てる自己責任論者が跋扈していたところではありますが、フリーライダー批判への強力なカウンターとして捉えることは、まあできるのではないかと(ということを書くと、突然つまらない話になって自分でも辟易……)。
ただ、人為による保護や施しではない共生のありかたとして一石を投じていると。ドールハウスの台所を与えることで、人為的に手を加えると余計に悪くなる(お為ごかし)という姿の辺りからは逆説的に。
また、共生虫(not村上龍)として、小人だけではなく、カマドウマやダンゴムシすら極めて愛らしく描かれている辺りからも、対象として普遍性を担保して描こうとしているとは言えないか。

描写は抑制的で、慎ましく生きる姿はこのような描かれ方の方が好ましい気がした。
宮崎駿の直近作品『崖の上のポニョ』比較するにポニョが仰々しさや歪み、洪水*1やグランマンマーレの死を呼ぶような*2のように自然を驚異的な姿で描くのと対照的に、人為の中にある自然的なるもの(手を加えられているので純粋な自然とは言い難い)というレベルで(それは都会の中の住宅地だけに仕方のないことだが、それを美しく描くのは『耳をすませば』とて同様)の美は存分に描き出されていたと思うし、この作品の基調にはその方がより合致していると受け取った。

「静」としての滅びの美学的達観を有していた翔と、やり過ぎてしまうものの精一杯やるだけのことはやる、「動」としてのアリエッティとの一瞬の邂逅と別離とをというのは非常に常套句的でアレですが。その際にも、先述の「抑制的」という面が働いていて、積極的支援は決して良い結果をもたらさないところがある。

ハルの小市民的悪役ぶりについては、某かっぱ映画のようにテレビに〜みたいな意識があったとは考えにくい。ただ単に見たい、明らかにしたい、というワイドショー的好奇心程度だが、その程度でも悪となることを体現。
小人に逢いたいという一方的な想いを、積極的意志をもって働きかけ、策を弄するということは、悪としてしか認識され得ないという届かなさを、滑稽さをもって描き出している。
すれ違い続けているからこそ、共に生きていくことができるという矛盾そのものを生きてきたのが相互の関係であると。
ただ、底に流れる存在の「信」の姿勢こそが必要であるということ。この辺りは貞子と翔の語らいで確認されるとともに、両者の間での信にもつながっていく。

この信を支えるモチーフについては、古い家に象徴される「隙」の存在の必要性があるのではなかろうか。
老女ふたりで住んでいた家は、その隙を活かして小人ばかりではない様々な生き物が生きていることも描いていた。手入れのあまりされていない庭も同様に、多様性の担保となっていた。
そのような隙は、網戸の破れ目や戸の隙間、煉瓦の隙間、壁の間など、作中の全ての行動の起点となっていた。
対して、近代的な住宅では密閉性の高さがあり、屋根も瓦の隙がなく*3、床下もコンクリート吹き付けで湿気を排除し、きれいに整えられている。
このような家の堅牢さは落ち着きとともに「静」をもたらし、その静けさは、翔のもつ「静」の印象に代表されるが、そのことが心臓の病気による息苦しさ=翔が走ったときに胸を押さえるような胸苦しさ、の要因として措くことができるのではないか。

アリエッティの行動に触発され、共に行動し、別れの際に翔は「アリエッティ、君は僕の心臓の一部だ」という言葉を彼女自身に伝えることになるが、アリエッティの行動の意志が翔の胸に刻まれた、という意味ばかりでなく、隙のある家に滞在し、アリエッティの「動」の姿に触れることで、密閉的な家の息苦しさから心臓(≒心情)が解放(というと言いすぎかもしれないが)されたことも同時に意味するものと言えるのではないか。

親の非在などの話もあるけれど、ここまででは情報が少ないので保留。

あと、どうでもいい話かもしれないが、画面がパンしたときにチラチラしてしまい、せっかくの家の全景やら庭やらが全然見えない気がする。これはデジタルのせいだろうか。
また、カラスの網戸突入のシーンだけやけに誇張が奮っていたような。カラスは頭がいいので、あんな見境のない行動はしないはず。

耳をすませば』とともに、舞台がよく知っている地域であるため、共感を呼んでいるところもあるかとは思うのですが、基本的に好意的に受け取りました。大仰な作品よりも滲みてくる気はします。

*1:全てを呑み込む波頭に乗ってやってくるポニョがアンリ・ルソーの「戦争」の左右逆の姿

*2:ジョン・エヴァレット・ミレイ「オフィーリア」の仰向けに川を流れる姿と同じ姿形で現れる

*3:スズメが巣を作れなくなっているなどの理由により数を減らしている報告がある