東浩紀和解year→死ぬんじゃ?で『こなたよりかなたまで』を想起

東浩紀氏が今年は和解イヤーでガンになって死ぬんではないかなどとのたまっていらっしゃいますが、そういうシチュといえば『こなたよりかなたまで』の遥彼方ですね。
なんだか同意の言葉があまり聞こえてきませんが、そういうことにさせてください。それ前提で話進めます。

こなかなについては、なんだろう、えーと、まあ、強くありたいと思ったところはある程度自分自身と共通した考え方かな、とは思ってみたものの、かなたんのやり方はまあ、当然のことながら肯んずることはできず、とう感じですか。あまり批判したいとは思わないのですが、佐倉を遠ざけ続けりゃいいというのはなんて浅はかなんでしょ。おまえわかっていて遠回りしてるだろ、みたいな。佐倉にだけ殊更辛く当たるのは、逆説的にそれだけ大切だということはわかるんだけど……。

あとはねぇ……(時系列に並べ直してしまうと)いくらいずみちゃんに手ほどきを受けたからといって、他キャラのエッチシーンで相手をいじめ過ぎだろ。つかオヤジ臭。それも結局は彼方の人格としてまとめて理解されてしまうんで、うーん、うーん。いまだにわだかまりが解けない。シーンの入りも、え、こんなとこでヤるんすか?みたいなところが……。

それよりも、前日譚にあたる形になるいずみ/優のはなしであれだけ他人に対してできて、「僕は死ぬまでみんなと生きるんだ」というのなら、佐倉のことでもわかるだろうに。それを忘れて避け続けるなんてねぇ。そうしたらクリスの助けなんていらないでしょ。それでは話にならなくなるんだけど。クリスとはその孤独感故に共鳴するのだが。

また、思ったのは、誰にも依存せずひとり旅立とうとすることを、不可抗力・天然ならおかわいそう、落涙もん、と思うのに、意志的に、自ら断ち切っていこうとするとこんなにいやらしくなるのね、とも思ってみたり。もちろん、「やりとげて」しまうあたりで観鈴ちんと並べて見ているんです。「孤独の中の君よりは、みんなと笑う君を選ぶ」とかいう時点で、本作自身が『AIR』批判だったのかと捉えてもいいかも。

かなたんと似ているが故に愛憎相半ばなのかしら。私自身も捨てられないもの多いし。
そう思うと、「捨てられないものが多すぎる」「君といくなら、今この瞬間にその全てを失う」というのは、彼方自身のことでもあるが、そのまま、プレイヤのこれまでのプレイした記憶のことでもあると言えるのではないか。だったら、それこそ、プレイヤがゲーム内ヒロインとともにいくことができないことと並べて見直すべきではないか、と思ったりもします。

まあ、あとは、他キャラのシナリオで選ばれなかったヒロインときちんと対峙してお別れするシチュは欲しいなと思ったナリよ。主に佐倉向けだけどな。てーかあんたどれだけ幼馴染み萌えなのかと。

そして幼馴染みとは別に結婚の約束の相手は他にいると。また森丸氏の法則に合致。でも結婚フラグの方が弱いけどなぁ。と思い切りクリスtrue否定発言……。

絵にあるような、みんな並んで通学路、というのが結局ゲーム内で実現しないことが、却って切ないですね。そこが実はいちばん印象に残っていたり。

いろいろ見聞すると、そこまで作り込む暇がなかった、という話もあるようなのですが、今ある作品そのものを見るしかないので、結局、人物同士が絡むことが少ない点が、逆に寂寞感を与えるような気もします。まあ、全員集合はなくても、佐倉との行為のあととか、いずみ/優のあのあときちんと佐倉にもお別れするとか、そのあたりは欲しかったですかね。

と、さんざんひどいことをいったあげくですがまあ、本作自体は「……嫌いじゃない」です。まともな分析できないで印象・感情的なのは、やはり自分の中になにかあるみたいですねん。OP/ED曲の良さは言わずもがな。Imaginary affairは今でも良く歌います。小さくたって汚れてたって他にはない。


ここで一句。

強いのと独りよがりは紙一重

おそまつ。