希望と失望の同居『沙耶の唄』

先日から『こなかな』のプレイ記憶を頭の中で弄んでいたら、なぜか『沙耶の唄』と繋がってきてしまいました。下記は両作品のネタバレありです。

その繋がりとは、要するに『こなかな』は異形のものが美少女だったから許される話な訳で、これが実際のところが沙耶のような存在だったらどういうわけだ、ということを考えざるを得なくなるわけです。それを言ってしまえば、美少女が現れるゲーム自体がその条件の上に成り立っているので、この類のものに対峙しているということ、それ自体を、自らが郁紀のような立場だったら?と自問する必要がでてきます。これはもちろん、沙耶が美少女に見えなければ同じという罠ですが。

さて、そうすると、この類のゲームを嫌悪する「一般的」な方々にとって、我々プレイヤたる者達は、沙耶のような異形と契約を交わし、反吐が出るほどおぞましい者共を愛する、人でなしの悪魔としか思われないのでしょう。そのため、この手のものの中に、例えば「真実の愛が存在する」ということを主張したとして、それは、決して、一般に受け入れられるものではないでしょう。それは人に極めて近い姿をしているクリスであっても、「一般的」な人が見ればおぞましい肉塊としか見えないような沙耶であっても、類型としては大きな相違はないことです。例えば郁紀は沙耶の真の姿が異形であると知っても、自らが人であることを踏み越えて、そちら側に行ってしまう(シナリオもある)わけですから。

そのような世界では、『沙耶の唄』同様『こなかな』でも、クリスと契約を交わした後、2人が「かなた」にむかって永遠の逃避行を続ける必要があり、この手のものに耽溺している者は、その異形の二次元彼女とか脳内彼女とかいう者との間での「真実の愛」を抱えたまま、永遠の逃避行(それは通常の社会的生活を保っていたとしても、精神的にはその例えに合致するような状況にあること)を強いられることと合致することになるでしょう。

その終わりには、永遠の逃避行はあり得ず、沙耶の「開花」のようなパラダイムシフトによる「希望」なのか、その事象の発生により郁紀の手から沙耶そのものが永遠に失われることになる「失望」なのか、それくらいしか出口はないというのが『沙耶の唄』作中での回答の提示になるわけです。

『こなかな』では、周囲の人々と一時の和解を経ても、老いの訪れないふたりには意図せずとも永遠の逃避行に向かわざるを得ないことは明らかで、それ以降の長きにわたり、「かなた」へ向けた永遠の時の歩みに耐え続けることができるのか、という疑問は尽きないわけです。

そこで、例えば、『こなかな』の世界で全人類吸血鬼化を考えてしまえば、クリスのクリスたるべき永遠の孤独が失われてしまうこととも考え合わせ、沙耶の「開花」同様のこととなるという邪推も可能でしょう。

「孤」であることへの共感から成立した関係は、「ここにいる君を選ぶんだ」ということで選んだはずの唯一の答えが、「唯一」と言える存在でなくなったとき、その愛着は容易に瓦解するのではないか、という危険も胎んでいると思います。

これは、「一般的」な人の間でも、恋とか愛とかいう状態から冷めて/醒めてしまったとき、そこになにが残っているか、と考えたとき、関係が壊れてしまうかどうかの話とも繋がるのかもしれません。だから昔の人は子はかすがいと言ったのでしょうが、今はそれも通用しないようですし。

そして、精神的に極めてお子様な私には、その状態がどのようなものか想像すべくもありませんが、少なくとも、その無限の先にあるものがどんなものか、真摯に受けとめることのできる力は備えておきたいと思います。