幸福のふたつのありよう

ともよちゃんから、2009/03/08の日記で引き続き反応をいただきましたようで。おつきあいいただきありがとうございます。これをきっかけに、こちらが思うところを述べさせていただきます。

「息が詰まって身動きがとれなくなる」ということについて、教条主義的な面、押しつけがましい面が作品中にあることについては同意します。作中でも坂を登る姿に象徴される「高み」への志向があるように、地に足のついた生活者としての普通の人たち、ともよちゃんの言葉で言う「その他の人たち」との乖離がここにあることは否めません。このような特徴を拙論「すべての始まりの場所としての『MOON.』」においては、「宗教的な色彩を帯びているということを否定できないだろう。」という言葉で言い表しています。

両者の幸せの考えの相違については、前回のエントリで「六道輪廻」を持ち出していたので、その話と繋げて考えるとわかりやすいかと思い、ここに試みてみます。ただ、私は宗教学や仏教哲学を学んだわけではないので、うわべだけでさらっといきます。

家庭円満とか、自分の身近な人たちが幸せに生きられる生活感としての幸福は、六道輪廻においては一般的な人間性といえる人界(落ち着いた境地)〜天界(幸せで天にも昇る心境、ギャルゲ−的には結ばれたあたりとか子供が生まれて幸せなど?)に当たるかと思います。ただ、我々にとっては天界での幸せは永続せず、長い時が経てば我々は老いて死にゆき、幸福状態の永続を望むのならば、その渇望はすぐさまいつまでも幸福であらねばならないという強迫から、餓鬼界に落ちていくきっかけとなるでしょう。また、自らの幸福を乱す他のものが現れれば戦わなければならず、そのときは修羅界へ、このような揺れ動く中にあるのが我々一般の生活世界です。

「他人を踏みにじってナンボな悪役の話」は麻枝准の関わる作品として原初を辿れば『MOON.』の高槻や少年の言「現実とはいつもこんなふうに過酷なものだよ」にも見られるように、所与の条件として現れ、避けえぬものとして置かれます。それは我々が日々生活を送る中で、嫌なことから逃れて天界のみに安住できないことと同じ話です。これは、生まれてはやがて死すべき我々の生そのものを表しているといえるでしょう。

それでは、これらの作品の持つ幸せの特徴について、「縋る幾千の星を超えて」「強さ」を得て「高み」に向かうことによる、生活世界からの飛翔というイメージが挙げられると思います。たとえば、『AIR』の観鈴のような、『智代アフター』での智代のような、彼女たちの生きた道行きの中には、通常の幸せが成り立ち得ないなかで、幸せに至るというその到達への端緒が記されていると考えます。彼女たちの中での幸せへの志向性は、「達成」という境地そのものではなく、最終的には希求し続けるその態度、意志や覚悟をし努力し続けることと言っていいでしょう。このことが、先刻の教条主義的態度と直結します。

このような通常ならざる幸せとは何か、ということになりますが、ここで、先述の六道輪廻にある「六道」より上に位置づけられている概念の存在により、もうひとつの幸せの在り方が見えてくると思います。天台宗系では、六道の他に、より上位の境地として7.声聞界、8.縁覚界、9.菩薩界、10.仏界の4つがあるそうです。

仏の境地というのはどうにもわからないですが、これら一連の作品に存在する、個人が過酷な状況に置かれ、それを刻苦勉励による「強さ」により克服していこうと意志する道行きが、上座部仏教的な修行と近いとするなら、個人的な悟りの境地であるような二乗(声聞界、縁覚界)の位置に置かれるかもしれません。ただ、市井の生活での幸福(天界)とは異なった幸福への追究といえることは確かでしょう。その志向は、よくギャルゲ−・エロゲ−で出てくるメタとか収束とかいう話とも絡んでくるのですが、それらの有する俯瞰的位置は六道から脱した境地にあるすべてを幸福へととらえ返すことへの希求というところと共通しているようなところがあると思います。

仏教によく言われるような、絶対的な神に当たる者はいないという点では、例えば釈迦はそのような修行を積んだ行いを辿った一人の先達であり、そのような自分を高める道があることを示す例として釈迦の生き方が見本としてある、と私は理解します*1麻枝准の作品にもそれと同等の、ありのままの生の中で苦痛にのたうち回る人間に、生のすべてを包含し、生の有する苦からの超越、つまりすべての在ることそのものを幸福と受け取ることができることを目指す道への試みとしての道行きが描かれていると考えればよいと思います。

ここで、今木さんが久しぶりに書かれていたので喜んで引用すると、

おそらく観鈴ちんの匂いとは「生活感」ではなく、もっと切実というか切羽詰まったというかのっぴきならないというか、なんかそういうあれとして登場します。

ここまでに言ってきたことは、だいたいこんなところと関係しているのではないかな、と思うのですが。普通に生きているシーンであってもなにやら切迫感を感じ取られることで。

あとは、プレイヤが、このように描かれた道を信頼して同じ道を行こうと共感するかしないか、それだけのことだと思います。ともよちゃんがこの道を否定されるのは、高みなどというからありのままの人が阻害されるんだ、ということで、そこに求める幸せがないからではないかと勝手ながら思うところなのですが。

「その他の人たち」「足元で踏みにじられてるはずのフツーの人たち」にとっても、日々は円満に過ぎゆくばかりではなく、やはり同じ六道輪廻の中にあることでしょう。そこで、もし、その人たちが自らの生に苦痛だと感じるときがあるならば、この道を同じように辿ってみてもいい、そう思わないで過ごすことができる状態であったり、この道ではない別の道に行くのなら、「あなたにはあなたの幸せを。その翼に宿しますように。」ということでいいのでしょう。

私としては、仏教では6番目として低く置かれている天界での幸福であっても、それより上位にある幸福への希求であっても、幸福の道はどちらであってもいいと思います。仏教的には上下があるのかもしれませんが、そこに貴賤はないと思います。毎日の生活で感じるささやかな幸せも、一瞬の心の通い合いによる無上の喜びも、一つひとつがありのままの幸せであることもまた生きていく中での魅力です。しかし、その中にあっても、個人的には、なお後者にも惹かれる面があるから、麻枝准の描く作品に魅力を感じるのだと思います。

ただ、『CLANNAD』においては、「やり直し」が存在することについては、むしろ幻想的な話つながりがあることでやり直しが効いてしまう甘さがある、ということになるでしょう。私が『CLANNAD』に対して諸手を挙げて肯定していないのもこのような点があるからです。また、私はTactics/Key作品分析において、あまり家族や共同体を前面に出さずにきました。『Kanon』論で1つやったものは敢えてというところです。そして、そこで出てきたのは意志して家族をつくりあげようとするいわば奇形的な姿で、一般的な家族の姿はそこにはありませんでした。おそらく『CLANNAD』は、岡崎家の家族の一般的幸福の姿を併置したため、余計に「それで家族だ共同体だ仲間だと言う。」ように見えるのでしょう。『CLANNAD』が人生として軸がぶれているというなら、それは、現世利益としての幸福と超越的な幸福の両者を併せて描こうとしたあたりに無理があったからでしょうか。

そこで『Wind』なら「私、幸せに貪欲なの」となるんですけれど(関係ない)。

*1:(ここは厳密な教義から批判される方もいると思いますが、私は素人ですし、その議論はここの本旨ではないので突っ込まないでくださいね)