『CLANNAD After Story』TBSテレビ最終回より

総集編が「緑の樹の下」に在るということで締めくくられましたが、青々と茂る樹を親、樹の下に生えてくる芽を子とたとえれば、樹の下にある少女、汐、風子は親の庇護のもとで無防備に、そしてすくすくと育まれる者と言えるでしょう。来たるべき旅立ちの日まで。それが君たちに与えられたモラトリアム。ただし、風子は25歳独身幼女だけどな!

冗談はさておき、幻想世界からロボが排除されてしまうことにより、少女=世界になるということについても改めて考えてみたいと思います。
至極象徴的な話になりますが、幻想世界の少女が「この世界の意志になる」というのは、別離の悲哀が強調されているように受け取れてしまいますが、自立(=自律?)の面があるとは言えないでしょうか。そのことで「さようなら、パパっ」の言は単なる寂しい別れではなく、1度目の旅立ちと捉えることができるのではないでしょうか。
そこで、幻想世界の少女は孤独化=孤立を経ることで、ようやくにして、少女の姿は弧から個の形をとり、白いワンピースの姿で生活世界に顕現することができるようになると。それは汐の姿に重ねられるのですが、おそらく、汐も白いワンピースの少女との一体化を経なければ、自立(=自律)した一個の人間となることができず、幼少時の(雪の中で死にゆく時の描写にあるように、父子一体化の?)うちに死にゆくこととなるのではないでしょうか。

これは、孤=個であることを一度経なければ、大人になれない、ということを暗示している*1のではないでしょうか。少なくとも、朋也は父子関係で、渚は学校生活で、それを経験しています。ただし、少女が生活世界に顕現するためには思いの力による光が必要だというのは、孤立化とは逆に、周囲の人間の信あってこそ人となれるという点でバランスがとられていると考えられるでしょう。

これに対し、麻枝節が有する高みへの志向としての厳しさを示すことが『光見守る坂道で』16話「町の思い」や「ソララドアペンド」中の曲「木漏れ日」でさっさと汐を親許から離し自立させる描写に繋がっています。このことは、これまでとは逆に見て、大人世代(朋也・渚)の、子(汐)への依存をも断つという意味を持つことになります。ただし、これは大人と子どもの世代間の対立ではなく、成長を見守る(見届ける)姿です。

ここで『とらドラ!』につなげて考えると、シロクマ氏3/27のエントリに繋がるでしょう。ここで、先程「見届ける」と敢えて書いたことに理由があります。

麻枝氏の処女作『MOON.』におけるエンディング付近*2で、主人公郁未が母に他人として逢いに行くシーンがありますが、ここで母は赤ん坊の郁未を抱きながら

母「この子はね…」
郁未「…はい」
母「大切に育てようと思うんです」
郁未「…ええ」
母「私が愛情に恵まれなかった分、この子には母親としての愛情を十分に与えてやりたい」
郁未「………」
母「でもね、いつまでも甘えてばかりじゃだめ」
母「大きくなったら、ひとりで生きてゆけるような強さを持ってほしい」

と言いますが、自分が母の立場になった時、同じように訪ねてくる、成長した後の自分の娘未悠に対して、郁未は赤ん坊の未悠を抱きながら

「この子はね…」
「はい」
私がそうだったように、親としての愛情を十分に与えて、育ててあげたいの」
「ええ」
「でもいつまでも甘えていちゃだめ」
「大きくなったら、ひとりで生きてゆけるような強さを持ってほしい」
「そして…」
「それを最後まで、私は見届けてあげる」
「ふぅん…」
「この子の母親としてね」

(上記2点の引用における強調表記は引用者による)
と言います。「見届ける」の言は後者の引用の後半部にあるとおりですが、それ以外に強調表示をした点の、郁未が「私がそうだったように」と母の言葉を改変していることは極めて重要な点です。この1点において、シロクマ氏が指摘しているような「母性のエゴイズムからの脱却」は既に完了しています。『MOON.』は1997年の作品ですが、麻枝准においては、そのようなことは既に10年以上前に通り過ぎた道であったわけです。

我々の実生活上でも、親と意見が合わなかったり、進む道を否定された際に、よく簡単に家を出ればいいと言い意見を聞きますが、それが解決ではないことは私も重々承知いたしております。しかし、実際は親子ですらわかり合う、いや、それ以前に話を俎上に挙げることすら難しいのですけれどね。こちらが用意できていても親の側が頑なに拒絶したりしていて。

ここで強引なまとめになりますが、親世代とて、必ずしも子世代より優れている訳ではなく「小さな手にもいつからか僕ら追い越してゆく強さ」があるということを、年齢が上であったとしても自覚し、きちんと認める必要がある、ということでしょう。

*1:だから早苗さんは「ひとりでできた」を汐に教え込んでいたんですね!

*2:幻想的とも言いうるシーンで、登場人物同士の時間が入り組み、普通あり得ない人同士の邂逅シーンであるため、このシーンだけ取り出すとポルナレフ状態だと思いますがお許しください