II.鍵っ子ustream・then-dトークメモ

1.冒頭のつかみ

○簡単な自己紹介
Tactics時代から一貫して鍵っ子(最近離れ気味ですが)
・はじめてプレイしたゲームから3作:To Heart→Pia2→バーチャコール3
・ギャルゲーを初めて以来、評論一辺倒
・初めてプレイしたTactics/Keyゲーム=ONE(エロゲー・ギャルゲーでは13本目)
・プレイ順:ONE(通常版)→MOON.Renewal→KanonAIRCLANNADplanetarian智代アフターリトバスリトバスEX→(AB!)→Rewrite
・クドわふはプレイしていません。城桐央さんごめんなさい!


エロゲー・ギャルゲーにハマるきっかけ(話の取りかかり)
・もともと小説のように「読める」話を求めていた→ありきたりの筋でないもの
・初期に『雫』『ONE』との出会い→「心に届く」普遍性を感じた
……それから15年
・現在、エロゲー、ギャルゲーは「ローカル最適化」(基本ブロック内で一定のパターンに当てはまる)されてしまったのか?
・筋書きだけではなく、記述の微に入り細に穿つところで現れる普遍的「人間性の追究」が目的
エロゲー・ギャルゲーはよく願望充足装置と揶揄されたり自嘲したりすることが多いが、果たしてそれは本当にそうか?

・恋愛という表現(=形式的な表層)を媒介にしつつ、人間の本質が現れる表現の現場(=深層)として一貫して有効なのではないか、という課題意識

<知識レベルから知恵レベルに引き上げたい>
・発売数が非常に多く、メジャーどころも含めて全方位的にはフォローできていないが、エロゲー・ギャルゲーを表層的に見ている段階では、いくらプレイ数を積んでも「知識」としては蓄積されるが、底流する物事の本質に到達できていないのではないか。
→「知識」レベル
・先の課題意識:人間性の理解
→「知恵」レベルに引き上げたいという意図

・表現として現れた様々な作品群を、よくギャルゲーで言われる「願望充足」という一刀で切り捨てるのはおかしい。
・ここで重要なのは「作家はそんなこと考えていない」と言うことは思考停止であること。
・表層的に浮かんだ「思考」としては考えていなくても、手癖、習慣、指向性という形で現れる無自覚的表現は、人間の「癖」を析出できるのではないか。所謂「本質の追究」に切り込みたい。
・だからこそ、作品にこだわる。作品の奥に入り込みテクストの微細な点に入り込む。
 もっとも、多人数で制作されるため、癖が消されたり他人の癖が混じったりする。
 その中で一番「個」の癖がでるのがテキスト。ほとんど個人で書くから強く出る。だからそこにこだわる、というのが私の注目する地点に向かった流れ。
さらにそのうち、癖が最も強く感じられたのが麻枝准
 単に願望充足ではない語り。
 常に理想とそれの反転という点のマイナスイメージとの対峙・対比が行われる点(相対化)

c.f.なぜ高橋龍也ではないか
 →『雫』のカジュアルな心理主義
 →後に出る『リアライズ』のエゴが形になった闘争
  わかりやすくかつ整えられた表現でプロの仕事ではあるが、逆に特徴が「形式的」に見えた。
  もっと混沌としたものを読み解きたいというのが麻枝准作品に走った理由。


(1)Rewrite感想(軽く)
 外面はこれまでのKey作品のモチーフを丁寧に参照しながら書いているという感はするが別物。
 恋愛ゲーム総合論集2の話。
→私もよくわかっていないので、5人召還して書いてもらいました。


(2)終わりの惑星のLove Song(軽く)
 世界設定についていろいろと詮索は可能でしょうが……まあそんなに皆さんの想像がブレるような感じではないような(バグとか一部わかりにくい点もありますが……個人的妄想としては実験的なセカイが創造され、そのうえでの営み……みたいな。Rewriteの中での試行と失敗を承けるような形で麻枝准が意趣返しを……みたいな妄想)
 ただ、最後の誕生まで含め、『CLANNAD』より深まっているとは思えない。
 (後述するが『CLANNAD』の汐のその後の取扱の方が余程自覚的・悪意的)
いきなりdisってすみません古参なんで。まあ入門ってことで……と次に繋ぐ


2.AB!とリトバス
麻枝准入門としての位置づけ>
(1)コミュニティ(多人数の仲間の存在が前提というか前置き)が舞台→仲間の中にいても感じる一抹の寂しさ
(2)そんな「離人感」を感じる人が麻枝准作品にシンクロする
(3)自分はこれでいいのか、よかったのか? と反省的視点を持ってしまう人がどうしようもなく吸い寄せられるというのが麻枝准作品では?
(4)でも解決はヤンキー的心象で刹那的快楽を肯定するように描かれているんですけど(刹那的快楽肯定で多くの人を呼び寄せることが「方便」なんですが)
(5)麻枝准の本性は(死によって突き放す)朱鷺戸沙耶シナリオの方向なんですけどね!(と話の腰を折る)
 「君も独り僕も独りみんなが孤独でいるんだこの輪の中で」みたいな。
  それを言うと来ヶ谷シナリオは麻枝准を勉強した人が書いている、みたいなことに。
 (雨モチーフとか水たまりモチーフとか消えるとか、別の世界という表層として)


3.CLANNAD
AIRまでの作品との変化の分水嶺として>
(1)「家族」をモチーフとした繋がりでKanon麻枝系シナリオ→CLANNADの変遷について(真琴シナリオを深める立場)
(2)「家族」を描くのはモチーフ(手法)であって「テーマ」(主題)ではないという私見について
(3)みんな「汐」の位置づけについてどこまで考えていますか?
→Q.13についての回答と関連。傍証:『光坂』第16 話「町の思い」と「木漏れ日」の歌詞(ここで歌詞を引用する)
(4)で、麻枝准の本性は『智代アフター』側にあるんですけどね(と話の腰を折る)


4.「高み」としてのAIR
(1)(ヨタ的に)安眠枕さん質問(が出される予定)の観鈴の病気について話すなら……
  http://booklog.kinokuniya.co.jp/saitoh/archives/2009/01/15/
 ここを読んで
  http://d.hatena.ne.jp/then-d/20090328
 これを書いた話とかですか?
(2)(以下真面目に)最大級の「高み」としての『AIR』(麻枝准最高の達成点)
 からすとなり、想いは空に届けたとしても(=CGで空の少女と一緒に飛んでいる)、私見では「空の少女」の帰還は叶っていない。帰還したら「無限の終わり」という話にはならないはず。また、観鈴は堤防という向こう側で手を振る。そちらの話はプレイヤとあずかり知らぬところで繰り返されることを想定。また、少年に視点が移ると観鈴の物語からも遠く離れて行かざるをえない、というところも含め全て「突き放される」感に繋がっている。
 それが『CLANNAD』までの長い断絶(3年半)となっていること
 →その間を埋める形なのが『Love Song』(結局結ばれてない、というか目の前にリアル女性すらいないという自意識の劇なのが本アルバム、という俺理論)


5.Kanon

(0)安眠枕さんからの質問に回答
Q.「Kanon発売当時の印象」
A.TacticsからVA系への移籍はまあ唐突な話で。でも作品外の事象に興味なく静観。
 久弥設定ということで引いた目で見ていたような。
 1999年ベストゲームを『Kanon』と『ときめきメモリアルドラマシリーズ3 旅立ちの詩』で迷ったあげく後者にしてしまったので、全体としてはいまいち感を持ったらしい。
 麻枝准担当シナリオの真琴、舞の歪みっぷりには相当惹かれた


Q.「Kanon問題」について
A.ONE論を書いているうちに、みんなKanon問題を言い立てるようになって(震源地はkeyHPの公式ネタバレ掲示板だったかと。友人の雪駄さんがそこでかなり荒ぶっていたという話を聞いたような気がします)、わたしはその話題をフォローする気がなく距離をおいていました。作中のテキストに依拠しない話になっていたので……
(1)麻枝シナリオばかりに興味が惹かれます(キャラは名雪好きなんですが……)
(2)真琴シナリオのその後→CLANNADへ、舞シナリオのその後→(虚構世界の)リトバス,AB!
(3)佐祐理さんって妹を亡くした浩平の性転換Ver.問題(ヨタ)※D.C.IIIシャルルも同じ?


6.ONEとMOON.
・KeyではなくTacticsになるが……
・ONEはAIRと異なるもうひとつの達成点(ヒロインと結ばれる、という観点で)
・長森シナリオ含めたシナリオの錯綜性
 http://f.hatena.ne.jp/then-d/20120619184840 →この辺の絵をもとに。

 
・MOON.はELPODにおいて、
 前半=自分の過去を素直にみつめる(過去の自分を否定しない)
 後半=欲に流されない(未来の自分は強くあろうとすべき)
 そのどちらもが力になる→不可視の力の発現、コントロール可能に
 不可視の力=意志力みたいな話に→オウム真理教事件の時期だが「修行」みたいな禁欲性は肯定
 でも何でもできるわけではない(少年の死という限界)→次世代(未悠)に繋ぐ話というのは、既に『CLANNAD』的ではある


7.振り子理論と仏教的価値観での作品の位置づけ(俺理論)
(1)振り子理論(さよならの系譜とおかえりの系譜の作品が交互にあらわれる)
(2)仏教的価値観?→「母」の宗教狂いとの関係?
 ・ONEの浩平母の宗教への傾倒と失踪
 ・MOON.の母のFARGO宗団への入信と帰還
 →弱さを強さへと逆転させたい、という志向が宗教への依拠を呼ぶ
 →ただ、宗教自体は実は否定していない(MOON.の修行の肯定)
 →根っこには何某かの依存があったり不安定さがあり、それを克服する方向での活動が初期作品には表出(それが切実さを産んでいる。後期はよく言えば余裕がある)
久弥直樹と比較され、というのもあるが、表向きでもっと内面の価値観的なところでわだかまりがあったのではないか)
 このあたりは「麻枝准論 亡き現在のためのパヴァーヌ」(http://members.jcom.home.ne.jp/then-d/html/maedajun.html)をHPに公開しているのでご参照いただければ。

(ラスト締め)次回Keyライタについて
→Q.11についての回答で終わる