岡崎直幸の存在に対する指摘について

ともよちゃんが『CLANNAD』でいい観点を示してくださっているので、反応をお返しします。

作中、岡崎直幸の位置づけは非常に軽く置かれているというのは仰るとおりだと私も思います。ただ、このことから、家族に関する認識として、作者が『AIR』以降で表現してることが通底して現れていて、共通している面を取り出せると考えています。

まず、『AIR』においては、既に拙論で引いている「SUMMER」の社殿で柳也と裏葉が神奈とくっついたり離れたりするやりとりの後「息苦しいほど身を寄せあうのが、まことの家族というもの」というやりとりにあるように、近づくときもあれば、離れるときもあるとういう家族に対する考えの基本線が示されていて、このことが後の作品にも適用しうると考えています。『AIR』と同様の動きについて、『CLANAD』においては、満たされて幸福なとき(朋也、渚、汐の3人がそろう時期や直幸、その妻、朋也がそろっていた時期)と、みんなが分かたれるとき(渚は既に死亡、汐は雪の中で瀕死、朋也もともに雪の世界に消えていく)の状態の振り子運動が両極端として生活世界中に示されます。くっついて幸せだった日々と、ばらばらで孤独または死に苛まれる放逐の日々との間で。

そこで、ともよちゃんの道具立てという指摘は、おそらく、この両極端の表現が関係そのもののありかたを深みを持って示すものではなく、あまりにも枠の提示という面にとどまるが故の、表現の不備と捉えてのことではないかと考えています。では、直幸の放逐が作中でどういう認識で置かれているかというと、朋也の言から、母親と一緒になっていいんだ、というかたちでの帰郷の仕方だったので、朋也が父になる分、直幸は子としての位置に戻っていいんだ、という意味での帰郷と捉えうるのではないかと思います。さすれば、くっついたり離れたりする動きの一つとして、直幸の帰郷を捉えることができると考えます。直幸は朋也を連れて岬に向かったあの遠い日に、母親の前で覚悟を表明し、自分が父として家族をまとめあげるという意志による出発から始まり、その役割を終えたが故、彗星が元の位置に戻るかのように里帰りしたという考えです。父としての役割は朋也を育て上げるまで、というあくまで時限のついたものであったと思います。このことは、朋也一家にも適用しうる面があって、ここは『CLANNAD』作中のみの表現には、汐の「幸福な家族」からの脱出への予兆としての、樹下へのワープ(と、それを風子が発見する)のラストシーンと私は捉えています。

そして、これに類する家族からの脱出として、『光見守る坂道へ』16話「町の思い」で、幸福なはずの朋也一家から、幼い汐は早々と世界に向けて一人旅立ちます。そのあまりにも無謀に見える旅立ちは、やはりなにやら奇形的な印象を与えずには起きませんが、このことは、幸福な一家に安住することそのものが不自然なのだ、変化や別れがあることこそが家族の本来的あり方なのだ、と主張しているように読めるのです。そして、ここで朋也と渚の役割は終わりますがその先は描かれていません。分かたれた後の話は『智代アフター』につなげていってもいいでしょうが、それは論ではなく妄想になりますね。

そして、「人生」というにはあまりにも一部の時間帯での都合のよい配置と繰り返しによるので、「人格」「歴史」という積み重ねと継続とはなり得ない、というともよちゃんの指摘はもっともなことだと思います。ただ、それを意識の俎上にすら上らせない作品がほとんどである中、限られた時間の中での表現に押さえ込んだため「人格」「歴史」とは言えないまでも、家族の構成員間の関係の変化ということで連綿とした変化に対する意識を示唆的に表し得たという点が、本作の特徴と考えられると思います。この指摘自体がずれていると仰るのであれば元も子もありませんが。

このあたりの一連の考えは、既に拙稿『永遠の現在』の『CLANNAD』に関する検討で書いてきたものを再整理するような形になっていますが、あしからず。ただし、このときは直幸の位置づけは全く考慮していなかったので、その点でも、ともよちゃんに感謝しております。