付記1

別の観点を補足するなら、「二つの世界」の置かれ方についてでしょうか。

まず、『ONE』においては、いわゆる「永遠の世界」と呼ばれているもの自体は消滅したり現実に吸収されたりするものではなく、そこにある世界からの脱出でしかなかったように、そちらの世界自体はある程度自立的/自律的と言えるかもしれません。また、それに類する世界の構成を自覚的に操作するような物言いが現れた(「でももう世界はないぜ?」「世界は、二人でつくる」)のは、実は『リトルバスターズ!』が初めてですね。

では、『CLANNAD』においては、幻想世界が確固としていて、現実世界(私の物言いだと「生活世界」になりますが、ここはともよちゃんにあわせます)が危うい代物というのも、幻想世界はむしろ不変であるからこそ確固としていて、その世界の有する確固さゆえに、変化の世界にあるものが(諦念により?)引きずられていくという様子を表しているように考えられます。ただ、『CLANNAD』においてはその二つの世界の距離が近づいているということも、「自己のコミュニケーションの彼方へ―『CLANNAD』論―」「『CLANNAD』と『智代アフター』における「あちら側の世界」観」中で指摘していましたが、安易というのであれば、相互の世界がstaticに関係づけられているということ、その地続き感こそが、安易に定められたと言っていいのではないかと私は思っています。

現実世界の危うさは、冒頭「この町は嫌いだ」から始まる「思い」に支配されているが故の代物で、その「嫌い」という思い自体が変化しない限り、いわゆる汐死亡エンドという悲しい別れによって「幻想世界」に引きずられていくことを連綿と繰り返すしかない状況にあります。ただし、一時的ではあっても幸福な朋也・渚・汐の三人が揃うときがあれば、「町は、家族です」という渚の言葉により町への否定的な思いが救われ、少なくとも「この町は嫌いだ」という思いは消え、その通奏低音のような思いが消えることでようやく現実世界自体が確固としたものになって現れると。それが「この世界に居座る根拠(家族)」として根を下ろしたということと一致させられていますが。

この点において、恒常的な変化のなかでも、一つのきっかけが世界の見え方を変えるというのが、渚との出会いと、3人揃った家族との、二つの通過点によって示されているのが朋也視点からの『CLANNAD』の道行きとも言えると思います。そうすると、朋也自身が主人公らしくなく背景的であるのは、朋也=町に対する思い=背景的、という置かれ方が、積極的に関わらない主人公という現れになっていると言えるのではないかと思っています。