Keyはどのように変わるのか――Rewrite/Philosophyz

さて、そろそろ『Rewrite』に向かって妄想を始めるときが来たようだ。
まずはOPテーマ「Philosophyz」及びムービーについて、『Love Song』考察と同様に、連想の束を投げつけてみることにしよう。
(以下、"Philosophyz"をP9zと表記。これは、PrismaticallizationP17nと表記することから敷衍したもの)


一見すると、この歌詞は『AIR』「鳥の詩」の超克を目指す方向性が見受けられる。


(P9z)「錆び付いたレール」に対して(鳥)「夏の線路」。


(P9z)「君はただ立ちつくす」に対して(鳥)「歩く」。


(P9z)「振り返る」(後ろ向き)に対して(鳥)「歩く」「追いかけて追いかけて」(前向き)
 →前向きが過剰な故に、他の全てを振りほどいて空へ還っていった少女という位置づけが『AIR』であるのに対し、捨て去ることはしないという対応の相違により書き換えの意志を示す『Rewrite』か?
しかし「後ろ向きに前に歩く」のが『AIR』の真の方向性なので、上記理解はお手軽『AIR』理解に基づく脊髄反射的対抗意識と見ることもできてしまうが。


(P9z)「もう二度と離さないと」に対して(鳥)「悔しくて指を離す」×2回、「手を離さないよきっと」×1回→『AIR』では指を離す方向性強し。


(P9z)書き換えるこの歌を→「この歌」=「鳥の詩」に妄想。都乃河は麻枝に喧嘩を売ったw



Movie中の絵について。
「遠い星」の歌詞に合わせるように月が出ていた。これと、歯をむく敵対的キャラクタ(ミドゥ=御堂筋)の存在が月の絵の直後に置かれていることから『MOON.』と直結させれば、視点人物に対し心理的威圧感を与える対象としての月というような位置づけで提示される可能性がある。もしくは『MOON.』のFARGO宗団のような対抗的存在が設定される可能性?

歌詞に戻って、空に在るものに対する心証を整理する。


「ひび割れた夜に 幾星霜の空」
→「ひび割れ」に否定的心証もしくは常識の崩れ去る位置としての夜。
 「幾星霜」に遠大な時間的イメージを付与。「空」という言葉が後に続き、Key的には辿り着けない印象を受ける。


「映る僕たちは幻」
(どこに映るのかという点が曖昧だが、空に/月に映ると解釈)
→空に対する僕たちという存在となる時点で、「僕たち」は「幻」として存在を抹消される。やはり否定的印象。もしくは空には対抗し難いという無力感か?


(空に浮かぶ)星に「灰の」という修飾語がある
→灰=「燃え尽きた」という印象が付与される。
例)宮沢賢治よだかの星』の最後の文「今もまだ燃え続けています」が、もし「今は燃え尽きて灰の星になっています」だったらどうか? 悲哀感が強まる。全て終わってしまった場所というイメージ。その空にある「灰の星」に向かって誓う、ということで、その終わってしまった遠き場所から見つめられる存在たる「僕たち」、という心証が得られる。
ただし、灰の星=遠い星なのかどうかは保留。

このように、空とは常に否定もしくは地上の「僕たち」と対抗されるべき存在として位置づけられている。
この時点で、(skyよりも抽象的な)『AIR』のように、空への心証が「僕たち」の生を否定しかねない存在であるように位置づけられている。
(『AIR』において空に還る=人間としての生を絶たれる、であるように)

『MOON.』において、月は、地上の営為を見つめつつも手出しすることのない存在として位置づけられていたが、それは、支援の手をさしのべることのない、冷ややかに観察する存在であった。また、月は恒星のように自ら光を放つのではなく、他の者が発した光を反射する者。「映る僕たち」を映すのは、鏡のような月面、なのかもしれない。
文字通りまた、歌詞にある順序とすると、空に映る僕たち、という意味で、空という存在に翻弄される姿、と捉えうるかもしれないが、このあたりは判然としない。


ここで、神戸小鳥の「いろんなものを…見てね」との台詞からは、視点人物の瑚太郎がこの「月=観察する者」同様の力を得ていくことになるような示唆と受け取ることができる可能性がある。
はいはいループループ。


また、『AIR』と決定的に異なるのは、輪廻において「もし叶うのなら 昨日とは違う 本当の僕をこの地に」という願いを有すること。
AIR』において希求する相手(往人は空の少女を希求、観鈴は友達になってくれそうな相手を希求)がいたとしても、「本当の僕/私」という希求はなされないばかりでなく、本当の存在と偽の存在、という峻別の仕方をしない。いま、ここにある自分=現-存在、のみを立脚点とし、その営為を記す。
タイトルが『Rewrite』である限りにおいて、このような、真の自分への希求という点と書き換えという行為が親和的であることが散見されるが、そのような人間存在についてこれまで麻枝准は否定する方向にあった。いわゆる「強くてニューゲーム」はない。『AIR』は引き継いでいたとしてもその力は弱くなり、目的は抽象的になる一方。

リトルバスターズ!』においては野球のステータスでは「強くてニューゲーム」となっていたが、これは物語の中において意味をなすものではなかった。ただし、試行の果てに恭介の乗り越えに至る点があり、その点ではあるべき姿への希求により成功体験へ、という流れは存在する。

この点に関連して、田中ロミオは、『C†C』において「こうしてようやく、俺は人間になったのだ」と太一にのたまわせるように、Rewrite及び真の自分という点への希求はロミオ節から導き出されるタームであるような印象がある。このことからも、シナリオ全体の企画が田中ロミオであるという指摘に肯うことができる印象。


(P9z)「風と雲が光ると 信じたあの頃 無邪気なときには戻れない」に対して (鳥)「飛行機雲」、「眩しくて」(→光る)、「いつかは風を切って知る」「吹く風に素足をさらして」「あの空を回る風車の羽根たちは」「入道雲」(描写に風と雲が多い)

という対比があるので、『AIR』は上だけ見て挫折していればよかった、という単純さへの反感があったりして……という点からも、この「P9z」は都乃河勇人の作詞のため、都乃河が麻枝准の乗り越えを目指して『AIR』及び「鳥の詩」に対抗する姿を示したものと捉えうるかもしれない。